大衆浴場、温泉から上がった人たちが額に汗をにじませながら休憩スペースのソファーにもたれかかり、くつろいでいる。
テレビ 新聞 携帯など、おのおの好きな事をしているその中で、僕の心臓だけが新しい一歩を踏み出すのを恐れていた。
「ここで歌っていいのかな?」
「誰も聴いてくれなかったら、どうしよう…」
これまでは、誰かが自分の音に気づいてくれるのを待っていた。
だけど今日は、自分から声をかけようと決めていた。
少し怖そうな表情でソファーに座り、ビールを飲んでいる男性が目に入った。
「 この人に、声をかけても大丈夫かな… 」
恐怖からか、声が出ない。
心臓の音がさっきまでよりも大きく聞こえる。
「でも……」
自分で決めたこと。
ここで後ずさったら、あの日までの自分と変わらない。
えい、当たって砕けろ と思い男性に声をかける。
「少しだけ、聴いてみませんか?」
「えっ!」
男性は一瞬、驚いた様子だったが、やがて微笑を浮かべ、ビールジョッキを下ろした。
しばしの静かな時間。
指が動き出したとき、それはなめらかな音を奏でる。
最初は緊張していた。
でも、満たされていく感覚が湧いてくる。
「 いつもと違う 」
止まって聴いてくれる人が1人、また1人と増え音が気づかないうちに広がっていく。
人は自分から歩み寄ることで、もっと広がるんだな。
男性は、微笑を浮かべ「良い音だね」と言った。
『 ありがとう 』
その言葉が、温かく心に染みていく。
今度は今日よりもっと自信を持って弾ける気がした、緊張が解けた僕は、目の前のビールを一気に飲み干した。